落とし物というかゴミ

朝、道に落ちてた。
それだけなんですが。
もう長いことずっと、私は、自分が自分の思い通りに動かないことを悩んでいた。
各種習い事に邁進していたのもそのためである。「できない」→「できる」に移行していく過程を知ることで、なぜ自分が「できない」のかがわかるかと思って。
各種健康法を片っ端から試したのもそのせいだ。動くようになるかと思って。
スイッチと呼んでいた。
出来る時にはものすごーく出来る。
出来ない時にはなーんにも出来ない。
スイッチがオンになったり、オフになったりしているとしか思えなかったから。
その見えないスイッチがどこにあるのか調べるため、食べたものや運動や行動、骨盤周期、はては月の満ち欠けまで調べて記録していたこともある。因果関係がわかるかと思って。
私がパソコンを買ったのも、もしかしてこの状態がなんとかなるんじゃないかという救いを求めてのことだから、それが1997年のことだから、えーと、11年。実際にはもっと長い。
それだけの時間、私は、「どうして? どうして?」と思いながら、原因と解決方法を探っていたわけである。
かなり近い「これかな?」と思う物を見つけたこともあるし。
試行錯誤はまったくの無駄ではなくて、あの頃に比べたら今の私は信じられないくらい快方に向かっている。
それがね。
この一ヶ月ばかりの間、予定されてたかのような一連の流れがいろいろあって。
スイッチがオンになりました。
何日か前からあれれ? と思っていたのだけれど、気のせいかな? と思って。
一時的にオンになることは、これまでも何度もあったし。
そのうちまたいつのまにかオフになるだろうと半ば身構えていたのだけれど。
何日も続いている。
心の持ちようとよく言うけれど、心を変えるのは、実は体を変えるのと同じくらい難しい。
でも、心が変わったら体も変わる。
体重が減ってきた。
以前とやってることは変わらないのに、おもしろいくらいばっこばっこ減るのだ。
だるくない。ぐいぐい動ける。
行動を起こす前のだらだらタイムが無い。
ご飯がおいしい。「これ、いつものと同じの?」と思うほど。物の味が、ちゃんとする。
水分をとるとき、「真水なんて飲めない」って、スポーツドリンクやハーブティにしていたのが、水で平気になった。
世界が鮮やかに見える。
やりたいことに集中できる。
そして、オフを誘因していた行動も、わかったと思う。
これで間違いないと思う。
だからもうしない。(……という方向で頑張っている。完全にやめられるのは時間がかかりそう)
長かった。長かった。長かった。苦しかった。
でも遅くはない。
これからだって十分やれる。
もう私は大丈夫。
今日、図書館で手芸本の棚を見ていたら、ふっと視線をそらすと隣の料理本コーナーに『粗食のすすめ』という本が目に入った。著者同じ。レシピブックだった。
うーむ。これはいよいよ、食生活を見直さねばならぬようですな。
和食を腹八分目。
特定の食品を、避けたり、食べ過ぎたりしない。
なにかの健康法を頑張りすぎない。
ふだんの食事をごちそうにしない。
その土地でむかしから食されてきたものを食べる。
肉より魚。
精製された食品でないものを。
現在の私は、無農薬野菜は食べているけれど、という段階。
知ってる調理方法は少なく、炒め物、肉を使うもの、などがとても多い。魚の調理方法ほとんど知らない。
これは、ちちははが元気なうちに調理方法を伝授されておけということだろーか。
帰りのバスで読む本を探しに札幌の本屋に寄ったら、数多ある本の中から、『粗食のすすめ』というこのタイトルがすっと目に入った。
こういう現象を「本が呼ぶ」と言います。本好きの人なら、誰でも経験していることだろう。そうやってめぐりあった本は、「おおっ、これはいままさに私が必要としていた!」という内容だったりする。必要なら目につくのあたりまえだって? 必要としていることを未だ意識化できていない段階でそれが起こったりもするんだよ。あるいは、タイトルだけでは何故それが必要な本かわからなかったりとかな。
で、この本。
病気の原因は欧米化した食生活だよという本。
じつは前日に『サーロインステーキ症候群』を読み返していた。
こちらは、病気の原因は車の普及で歩かなくなったせいだよという本。
ある意味まったく違うことを言っているような気がするこの二冊の本は、同じものを違う視点から論じているような気がした。
で、そういうのが続いたときって、何かを「気づきなさいね」「見直しなさいね」という時期なんだよな。
ふむふむ。
しばしの寝たきり若者生活は、私に大事なことを思い出させてくれたようです。
むかし、動きたくっても動けなかった。頭の中にどれほど思いがあふれていても、何も出来ない自分を歯がゆく思っていたものだった。
その頃のことを思い出したら、怠け心で「うーん、走ろうか、どうしようか」なんて贅沢きわまりない。
何を甘えていたのでしょう。
これは修行なんですから、多少つらいのは当たり前です。
……なーんて、かっこいいこと言っちゃったりなんかして。言ってるそばから「うひゃ」とも思うんだが。
あと、どうも私は走り方が悪かったらしい。起きてすぐ走りにいってはいけないのだね。水なり、多少の炭水化物なり、腹に入れてからでないと。
今日、ひさかたぶりに、腹の底がきゅっとひきしまるような感覚、背筋がぴいんと伸びるような感覚を思い出した。
いつのまにか、未来のために生きていたようです。
それがしんどいことは知っていたはずなのに。
未来しか見ていないから、今現在自分の前にあるゴミのことは目に入らない訳です。
こういうのは、いかん。
思い切って未来を解き放つと、楽になった。と同時に心細くもある。でも自由ってそういうもんだ。
会社にいる間は念のため装着していたけれど、今日の夕方より、ついにコルセットはずした。いや〜爽快。体が軽い。
ときどき、「うっ?」と思う瞬間もないではないが、大丈夫だろう。
が、念のためスポクラは漕ぎ漕ぎだけにしておいた。
ま、たま〜になら、健康のありがたみを知るために、こういうのも、いっか……。
短い……
だがネタがない……というより眠い。
ま、いっか。
いやー、安静にしてなきゃなんねえってのも体しんどいもんだ。
明日こそ、なんとか、走りたいものだよ。
_______
『樹霊の塔 伊集院大介の聖域』
伊集院大介シリーズである。主人公は森カオルである。松乃原カオルでなくて。
いやー、いつのまにか森女史結婚してたもんだから、「なんか見落とした本あったかなあ」と思っていたのですよ。
やっとすっきりした。
でもね……
期待して読んで、期待通りおもしろかったのだけれど……
(ここは強調しておきたいんですが。おもしろかったのです)
うーん、伊集院大介&森カオルのそうした懐かしの『絃の聖域』やら『鬼面の研究』やらを懐かしく思い起こさせる内容だからそう思っちゃったのかもしれないけど……
じつは読み終えて「あれれっ?」という肩すかし感が、じつは、なくもなかったのですよ。
もしも、前二作を書いていた頃なら、これ、前後編になっていたんではないか〜……なんて考えちゃって。
全体的にあっさりめじゃありませんでした? この人のこういう作品にしては。描写が。
時代の要請か、お加減が本調子でないのか、単に装丁のせいでそう感じるだけなのか。
このあいだ久しぶりに『グイン?サーガ』の最新刊を手に取ってみたら、どことは明確に指摘できないまでも、確実に文体が変化してしまっていて、うーん、腕組みをしてしまったんだよなあ。
そりゃあ、5年連載した漫画だって、最初と最後で絵が違うんだから、ウン十年と続いている小説ならば、変わるでしょうよ文体くらい。著者の環境だって変化してるし。手書きからワープロ書きになったそうだし。
うーーーーーーーん……
でも、お元気で書き続けてくれさえすれば、文句ないんですわ、本当は。
『ガン病棟のピーターラビット』を読み終えたのはつい一週間ほど前なだけに、かなり心配。
つねづね、『グイン』を書き終えない栗本薫さんと『ガラスの仮面』を描き終えない美内すずえさんは死んではいけない! と思っているのです私は。
もし万が一のことがあったら、誰かに乗り移ってでも続きを書いて! と願う。
(あああああ。『銀の海 金の大地』を書き終えない氷室冴子さんというのもあったなあ。でもまさか、氷室さんにはまだそんなこと無縁だと思ってたから。構想ノートを引き継いだお弟子さんとかいないのかなあ)
もしかしたら過去作品を美化してるかもわからんので、読み返してみます。『絃の聖域』と『鬼面の研究』と、あと『優しい密室』もね。
ああっそんなことしたらぼくらシリーズだって猫目石だって読みたくなってしまうっ!

タイマーがいつもどおりの時間に鳴ってしまい、走れもせぬのに起きてしまった。
走れないとなるとすごーく走りたくてたまらない奴。それがワタシ。
「走ろーか、どうしよーか」
と迷えるというのは幸せなことだったのね。
うるる。
コルセットつけてれば大丈夫なんじゃあと一瞬思いかけたが、そこで「ぎくっ」となってしまったらものすごく阿呆なので、自重しました。
午前中くらいまでは「あ、このままコルセットしてたら2〜3日で治るかも」と思っていたのだけれど、帰り際あたりにはもう腰がだるくてだるくて。ウレタン詰まってるみてー。手だとうまく届かないんで、職場にあった木槌でコンコンしてました。
写真はねー、きのうぎっくりネタでふっとんでしまったのだが、日曜日に実家のミシンを作ってこさえたシュシュ。
最後の仕上げをこっちでやって完成。
可愛いっしょー。
売ってるやつみた〜い。(自画自賛)
オレンジページに作り方が載っていて、それ見てたら作りたくなった。
前に百円ショップで買って切って放置していたパッチワーク用の小布を使用。
ミシンパッチワークで、しかも待ち針もしつけ糸も使わないでテキトーに縫ってるので、裏側はすごいことになってるんだが。
でも見えないからいーもんね。
母は、洋裁のセミプロなもんで、基本を外すことにどうしようもないあずましくなさを感じる人で、むかしは、そんなことしてミシン使おうもんなら、「ちゃんとしつけしなさいっ!」つって、言うこときくまで延々うるさく言っていたものだが、最近では、
「ま、あんたはそうやりたいんだろうから」
と放置してくれるようになった。
お、おかーさんっ。
大人になったねえ(爆)
そのかわり手を出したがって仕方がない。
誰かがゲームやってると「やらせてやらせて」と寄ってくる子供のようなもんだ。
むかしは「私が自分でやりたいのっ」と怒っていたもんだが、いまは「ま、誰の手が入ったもんでも完成さえすりゃいいや」と手伝わせてあげている。
私も大人になったねえ。(ぶはははは)
えんぴつで糸をほじくりだそうとしていたら、
「カラッポヤんでないで向こうから目打ち持ってきたらいいしょ」
と言われた。
母よ。
カラッポヤむという動詞は無いぞ。
(カラッポヤミ(=怠け者)という名詞はある)
今日の朝、職場で。
洗って乾かしてあった先週使ったガラス器具類を戸棚等に戻していた時のこと。
膝くらいの高さの引き出しに、百ミリリットルのコニカルビーカーをしまい、引き出しをしめた、其の瞬間。
アレが来たんです。
「ぎくりっ」とまではいわぬまでも、まあ、「みしっ」というていどには痛い衝撃が腰に。
「ぎゃああ、やってもーたっ」
しかしその時点で歩き回れたくらだから軽症。ほんとにすごい時って電話まで這っていかないとなんなかったもんねえ。
ぎっくり腰とまではいかない。ま、プチぎっくりというところでしょうか。
きちんと骨盤をまっすぐにして、その上に背骨をのせないと痛むので、普段より姿勢がいいくらい。
不便は椅子に座る時と立ち上がる時が痛いのと、かがむことが出来ないくらい。
でも腰より下にあるものは取れないわけだから、業務に全く支障がない訳ではない。
今日はいつもの仕事が半分なくって、暇だったので良かったけど。
その場に居合わせた後輩に言われてもーた。
「運動不足ですか?」
……週の半分は走っていて、そうでない日は踏み台昇降をしているなんて恥ずかしくて言えない。
その場にいなくて、あとから話を聞いた主任は呆れていた。
「なんぼ重いビーカーだったのよ」
手のひらサイズですが何か。
変だなあ。
原因が思い当たらない。
カリスマ整体師寺門琢巳氏によると、ぎっくり腰というのは発散できずに蓄積された怒りのパワーが腰に来るらしいのだが、該当する怒りが無い。
よしもとばなな氏のエッセイというか日記には、被害者意識があるときになりやすいと書いてあった気がする。
別に〜?
過去のぎっくり体験の時は、たしかにそういうこともあったかもしれん。
でもいまは別になんもないんだが??
すっごく機嫌がいいというか状態がいい時期だったので、意外。
運動だってちゃんとしてる。無理をして走ってるわけでもないしねえ。
栄養状態だって、和食を中心としたオウチごはんが続いてる。
変だなあ。
それにしても腰が痛いなあ。
今日はさっさと寝ますぅ。
今日は「○○町内会のみなさま、今日は町内の廃品回収の日です」という宣伝カーの声で目が覚めた。
おおっ。ひさしぶりだっ。
うちの市は、古新聞古雑誌段ボールのたぐいは、町内の回収にまかされてるので、これを逃すと捨てられない。
半年くらい逃しまくってたので、たまってたんだよー古雑誌。
急いで着替えて、置き場所に行ったら、まだ誰もおいていなくて、ちょっとドキドキ。
でも図書館に行くとき前を通ったら、ずいぶん並んでて、ホっ。
しかし、私の出した紙袋の一つ、漫画の入ったやつが無いっ。だれか持ってったなあ(笑)
お風呂で読んでたからベコベコなんだが。
図書館では、どう見ても元ヤンキーでドラゴン刺繍のジャンパーを着た二十代のおにーちゃんがヤングアダルトの棚の前でものすごく一生懸命に本を選んでいたのが微笑ましかった。
そーそ。なんでも読んだったらえーねん。
ヤングアダルトでも。ハーレクインロマンスでも。ハリーポッターでも。
おもしろいと思うもんを、がしがし読んだったらえーねん。
ヤングアダルト本で活字に馴染んでいれば、そのうち普通の本に移行する日も来る。
大人がヤングアダルト本かよ、と言う人に限って、本なんて読まない。(週刊誌を読む)
フィクションを読まない人は、疳の虫が強くていかん。
今日は札幌で習い事の日。
バスに乗るため国道を歩いていたら、「サンガーデンにはどうやっていくんですか」とおじさん二人連れに尋ねられた。国道を渡った反対側だったので、説明してあげた。
バス停でバスを待っていたら、おばさん二人連れに「サンガーデンには以下省略」と尋ねられた。地図を持っていたので覗くと、何かのイベントの配布資料らしい。で、方向を逆さまにしていた。そうか、さっきのおじさんたちも逆さまに持っていて間違えたんだな。
地元の人間なら「山が北、海が南」ということは体にしみついていると思うので、よそのお人であろう。
(こういう土地勘を持って育ったため、稚内に行くとどうしても海の向こうに苫小牧があるような気がしてならない)
(京都に行った時は「うわー全部北だー」と思った)
今日、サンガーデンでなにがあったんだろう。ちょっと興味。
習い事では、未来についての新しいプランを提示され、もうすこしのところで「そんなこと無理です」と言ってしまいそうになったが、踏みとどまった。
自分に出来るはずないと思っていたけど、やってみたら出来た、なんてことをいま私はやっている。
まずは、できるのかもしれない、やってみようと思うこと。
意識をそっちに向けること。
どの程度のレベルのことが出来るのかというのはそのあとの話。
自分にもっと新しいことが出来るのかもしれないと信じることは気持ちのいいことだ。
「いつかそれを実現出来るようその方向で頑張ります」
札幌は暖かかった。風がないせいかな。
アップルストアに行こうとしたら、大通りの三越ライオン前で、高校生の子たちが自死遺族のあしなが共同募金をやっていた。(事故や病気で死んだおとーさんのコドモは奨学金をもらえるが、自殺で死んだ場合はもらえないんである)
うーん、君ら、すごく一生懸命にやってるのは伝わるんだがね。もう少しやり方を考えてね。……入れづらかったあ、すごく。
あんましきゅっと固まらないで、適当に分散してくれないかしらねー。
入れたことをアピールしたい人もいるんだろうけど、コッソリこそこそ入れたい人もいるんだからさー。
(しょうがないから可及的すみやかに投入し、こそこそと足早に去りました)
今日は、来年度の新入社員の話をしたら、主任がいきなり機嫌悪くなった。
うちの主任はけっこう感情が一定しない。いい歳して。
で、いったいなにが不機嫌ポイントなのか、全く読めないところが困る。
だって新入社員の話はこないだの飲み会の時に総務課長がみんなの前で普通に言ってたんだよー。
オフレコでもなんでもないよー。
念のために新人君がいる場は避けたよー。
彼の言い分は、「入社予定というだけで、試用期間もあるし、もう入社が決定したみたいに言うな」ということなんだが、どうも、違うな。
なにか、違うことで「むっ」としたんだと思う。
そういう人、たまにおらん?
感情を害した本当の理由を隠して、あるいは見ないで、それらしい理屈を無理矢理つけて文句つける人。
簡単に言えば、気分で怒る人ということになるんだろうか。
そこで感情を害した本当の理由は実にくだらなかったりするんだよねえ。
「私の思い通りにならない!」とか「俺のことを馬鹿にしてる!」とか「出来れば一生知らずにいたかったのにそんなショックなこと!」とか。
なのに「そういうことをするのは良くないだろう」とかもっともらしい理屈つけて怒るんだよなー。言葉というのは強いから、直感で「ナンカチガウ」と察知しても、時間が経つにつれ言葉にとらわれてしまったりする。
私の成長過程に、そういう大人がとても多かった。
江原さんや美輪さんが言うところの「叱るんでなく、あたる」人ですな。
おかげさんで私ゃたいそう人の顔色を伺う人間として成長いたしました。
でも、「あっこの人気分を私のことをよく思ってない!」とびくびくすると、そういう人ってなおのこと調子にのるんよね。
おばさんになるにつれ、だんだんと、神経が太くなり、「そーゆーのは私のせいというより本人のせいで、私にはどーしよーもないんだから嫌われてもしかたない」と開き直り、そしたら相手も妙な態度はやめるんだということを覚えましたが。
んで、金曜日の飲み会で「鬱……」になってしまったのは、「主任のせいだー!」と気づいた。
たまたま斜め向かいの席にいたんだけども、私がなんか喋ると顔をしかめたり、「酔ってるからってなんでも喋るな」と苦々しげにつぶやいたり、するわけ。
でも私には、自分の言葉のどこがいけないのかがわからない。
ひさしぶりに、コドモ時代のおろおろした気持ちをフラッシュバックさせてしまいましたのさ。
くそー。私もまだまだかわいいところがあるじゃないか。
つくづく、「もう会社の飲み会に出るのは避けられるかぎり避けよう……」と決めた。
少しは水が入っています。
どんなに水を注いでも、なかなか溜まりません。入れた分量のうち、半分以上の量が、いつのまにか消えてなくなります。
毎日1ずつ注ぐのと、10日に1ぺん10ずつ注ぐのとでは、前者のほうが圧倒的に残る量が多いです。後者の場合はほとんどすべて消えてしまいます。
注ぐのをやめると、しばらくはそのままなのだけれど、ある日とつぜんがたっと溜まっていたはずの水が消えます。
ふたたび注ぎ始めると、前に溜まっていたレベルまではけっこうすぐに溜まります。
やればやるほど溜まりやすくなり、満杯になったわけでもないのにバケツから水があふれてきます。
以上、英語学習のお話でした。
こんな理屈こねてる間に書き取りのひとつもやったらどうなんだい。
朝にタイマーが鳴ったとき「行きたくない!」と思う日は、体にそれなりの事情があるものだとわかった。
そこを意思の力で押して出かけるのは簡単だけれど、そんなことをすればあとからどどっとつけがくることもわかった。
わたしは、自分の体の感覚に無頓着なほうで、「へんだなーどうして体が動かしにくいのかなー」なんて首をひねりながら無理をして、いよいよ重篤になって動けなくなってからはじめて「そうか! 熱があったのか!」なんて気づくようなところがある。だから20代にがっつし体を壊したわけで。
だいたいさー。夕ご飯食べたあとは頭と体がスポンジで、どうしても動かなくて、まずベッドに横になるところから始めないとなんないって、それ、なんかおかしーぞって気がつかねーか。大人なんだからさあ。今回は貧血だったわけだが。
ああっ私って意志が弱いと自分を責めている場合じゃないのだ。
ああ、でも、精神的な理由もあるみたい。
外に出るのが気が重いらしい。
なにしろ、今時分5時はまだまっくらなので。
この市の名物は不祥事と言われているけれど、そのうち全国版ニュースをにぎわすような事件の萌芽なんではないかと恐れられている、未解決の連続小動物遺体損壊遺棄事件というのがあってね。
発見現場がもろランニングコースとかぶるのだよねえ(ため息)
どっちにしろ、もうあといくらも外を走ることはできないしね。せいぜいあと一ヶ月。もっと短いかも。
なにしろ昨日、雪虫見たし。
かわりのなにかを考えなくてはなー。
_______
映画の宣伝にフト思い立ち、録画したきり見ていなかった「ガリレオ」を見た。
ううっ。福山かっこいい。萌え〜。
北海道の新名物スープカレー。
だがしかしこれは北海道のというより札幌の名物である。
それを証拠に、札幌には山ほど(百を超える)スープカレー専門店が、札幌以外の土地にはほとんどない。
北海道では五指とは言わんが十指には入る都市であり、札幌にほど近いうちの地元さえ、そうだ。
いちおうね。はやりもんだからね。カレー店にはね、あるんだわ一応。なんちゃってスープカレーが。
(なんちゃってスープカレー:ルーをしゃぶしゃぶにしてバジルとブラックペッパーぶちこめばスープカレーだと思うなよこの、というカレー)
あとね。喫茶店でいくつか、変形スープカレーを出すお店がある。
(その1:スープがタイカレーベース)
(その2:いちおう和風と銘打ってるもんの、正体不明。スパイスぶちこみすぎではっきりいって苦い)
だけど、肝心の、正統派スープカレーがない。
だもんで私にとって長いことスープカレーは「札幌で食べるしかないもの」であった。
んふふふふ。
それがね。
ついにっ。
できたのっ。
地元のスープカレー店。
行ってきました。
立地は、30年前の一等地、今はさびれている駅前商店街。
内装が意外に凝っていて、昭和レトロなかんじ。
店内には立ちこめる匂いがあり、なんだべー、どっかでかいだことあるんだけどもー、古い家の匂いじゃないし、年寄りくささでもないし〜と思っていたら、ずっとあとになって買い物してる最中にわかった。そうか。豚肉の、というかゆでた豚足のにおいだ。
サイドメニューはおきなわんフードだったし、沖縄出身の人が作ってるのかな?
ベースがチキンと海老と、あとなんだっけなの三種類。
トッピングも可。
ぎょうざをトッピングしたら、揚げてあった…のはいいんだが、中がしゃりしゃりだった。冷凍してたのねー(^^;
ごはんがおいしかったのが非常にマル。
辛さも選べる。
スープも、ベーシックなスープカレーのスープというかんじ。
全体的に、評価は「よくできました」というかんじ。
近頃なにかとお店が長持ちしない我が地元。
長く生き延びてほしいものです。
_______
さっき洗濯物を干していて、人間が生きているとなにかと手間がかかるものだなァとしみじみした。
いやべつに、ひとりぶんの洗濯物干すくらい、たいした手間でもないんだけどさ。
ちゃんと生活しようと思うと、時間がかかるなあと思ってさ。
三連休でやりとげたことは、予定の三分の一以下だ……はあ……。
遅ればせながら衣替え中。
いやほんっっと遅ればせだよな。
街はもう寒いのよ。
半袖なんてスポクラでないと着られないよ。
春の終わりにしまい忘れた数枚をくるくるさせてしのいでたのさ。
しかし「ぼーっ」としてたあいだに積もり積もった生活の垢のほうをなんとかするほうが急務でさ。
衣替えするたびに、この服、半分いらないよなとかしみじみ思う。
たぶん稼働率50%以下。
新しいのしか着ない。
でも捨てられない。
なにかの拍子に前年まで着なかった古い服をいきなりヘビロテしてしまったりするし。
まだ着れるし。
思い入れも思い出もあるし。
最近服を買うことが減った。
若い頃なら買ってたであろうちょっといいなと思った服も、物を増やす厄介さとはかりにかけて買わなかったりする。
年をとって酒をたくさん飲めなくなったので、少ない量を大事に飲むようになった。
年をとって物をたくさん食べられなくなったので、少ない量を味わって食べるようになった。
服も、そうありたいと思う。
心の底から「これ好き!」「欲しい!」と思ったなら高価であっても思い切って買う。そして着倒す。それが一番かも。人にすすめられた〜とか、お手頃価格だった〜とかってーのは、結局着なかったりするからねえ。
……しかし胃袋には限界があるが、タンスとお財布は多少は融通が利くので、なかなか理想通りにはいかないのが資本主義の申し子であった。
あと、もーちっと、痩せよう……
そしたらたぶん、稼働率70%くらいはいくと思う……
(体重数キロ増えると、きられない&にあわない服がどーんと増えるよねえ)
朝走るようになってから、体が細くなった気がして、嬉々としてして測ってみたらなーんも変わってなかったわ。
うっそおお。
手にあたる感覚がまるで違うんだけどな。
なんで変わってないんだろう……
調子が悪い。
朝から、何度も起き上がっては、またベッドに戻り本とかゲームとかをだらだらと……の繰り返し。
どうも体が痛いらしい。なんでだ??
三日前のランニングの筋肉痛??
雨のせいで朝走れない日が続いたから??
ゆんべ、飲み会だったので、その後遺症で鬱になっているというのも、あるかも。
つくづく、「ああっこういう場って好きじゃない!!」と思った。
んじゃ、行かなきゃいいんだが、そうはいかないのが浮き世の……
組合大会が終わったご苦労さん会だったんだけども。
一次会はね、いいの。料理がおいしかったりして、ひたすら食べてりゃいいから。
二次会がね、女の子のいるお店に行くのが、最高いや。
ひとりでしゃべってくれる女の子だったらいいんだが、そうでなかったし。
かといって、自分が喋るのもいや。声をはりあげないと隣の人に話が聞こえない中で頑張って喋るのは、あとでどっと疲れる。
しょーがないから、隣のおっさんの話にひたすら相づちをうってたんだが、それも疲れた。
「俺って、いっつもしょーがない趣味に大金つっこんじゃうんだよ」
……みんなそうだよ。
心の中でこんな突っ込みをいれているくらいであるから、話をひろげようという気にもなれず。
だいいち、それはお店の女の子の役目だろう。
かといって、別のおっさんの「そんなことはもーわかってるんだよっ!」的な人生訓を聞かされるのもすとれすすとれす。
おっさんというのは、相手が若い女の子(そろそろ違うが)と見ると「自分の話を聞いてくれるはず!」と思っているところがある。
飲み物が、ウイスキーと焼酎の水割りしか選べないところも嫌だった。せめてビールかコーラを飲ませろ!
しかし、間が持たないのでそれ飲んでるしかない。
黙ってばかりじゃ「暗いやつ」と思われてしまうんだろーかと周囲の反応を気にする自分も嫌。
私には、この世の中のルールがわからない。
みんなが暗黙のうちに理解しているものが、私にはわからない。
小さなときからそうだった。ずっと「うまく言えないけど、なんか違う」「世の中は、私のための仕様にはなっていない」「あずましくない」という感覚の中で生きている。
こういうお店に来ると、そういうことを否応なしに自覚させられる。
わからない。何がどこまで秘密で、何がどこまで顰蹙で、何がどこまで常識なのか。
早い話、何を飲んだらいいのかさえ、わからないんだぜ。
(そのほうが安いんだろうと思ってウーロン茶ばかり飲んでいたら、そのほうが高くつくんだと聞いてびっくりしたことがある。ああいうお店では、ボトルのウイスキーか焼酎を飲むのが一番いいんだとか。で、我慢して水割りばっかり飲んでいたら「ここは飲み放題だからウーロン茶飲んでいいんだ」と言われたり、もうわけがわからん)
よくみんな、わざわざ店きて飲むよなとしみじみ思った。
私なら家で一人で飲む。そのほうがどれほど気楽か。
しかし、昨日もしばしば言われたごとく、「一人暮らしさみしいだろう」という発言が出てくるあたり、みんなはとにかく一人にはなりたくないらしい。
ほー。
私にも「ひとりはさみしい」と思う瞬間が、たまにはある。一年に一回くらい。
でもたぶん、自分とは全く違う行動様式を取る他人にかき乱されるより、そのさみしさをやりすごしたほうが、私にとっては楽なのだ。
で、楽な方向に走った結果が一人暮らし。
休みの日に友達と会うなんつーことも滅多になくなった。
ま、この年になると、友人はみんな結婚して子育て真っ最中か、責任ある仕事してて忙しいかだしね。
若い頃はそういう自分に劣等感を持っていたが、最近はそれでいいと思うようになった。
私が社交的ではない。それでいい。
ひとりでいられないがためにストレスをためるひとだっている、一長一短だ、私はこれでいいんだ。
しかし、「楽なことばっかりしてていいのか」と思う声もある。
ので、昨日も出かけたんだけども。
そして「ああっやっぱり好きじゃない!」という気持ちを上書きして帰ってくるわけだけども。
はあああ。
走れば、ちょっとは調子よくなることはわかってるんだけども、「気が進まない」。
んで、ちょっと支度してはだらだらし……みたいなことを繰り返している。
が、しかし自分との付き合いが長いので、少しは扱いがわかってきた。
「とにかく最終的にはスポクラに行く!」
と自分に言い聞かせたので、どんなに時間がかかっても(2時間とか3時間とか……)最後にはたどり着くだろうスポクラに。
行ったら走るしかないので、走るだろう。
そしたら明日からは、ちょっとはましになるかな??
______
朝の10時に起きて、ひたすらのたのただらだらして、やっと身支度して外へ出て外食をしてスポクラ行って買い物して帰ってきたらもう夜の8時だった。
一日が短かったなあー。
いまさら読んでます宮尾登美子著「きのね」。
嗚呼はしなくも本好きと称すなら「きのね」くらい読んどけとか言われそう。
おねーちゃんあたりに。
うーん。
女流作家の描くところの、近代、現代の女性の人生模様〜みたいな話がどーにも好きになれなくて。
(だから時代物なら読む。篤姫は十五年くらい前に読んだ)
この人がすごい作家だということは、知ってる。
うちのおかーさん宮尾登美子と三浦綾子好きでね。むかし鏡台のそばの本棚にいろいろ並んでてね。髪とかすついでに「蔵」(この字だっけ?)あたりを手に取ってぱらぱら流し読みしてみるじゃん。
途中から読んでも、いつのまにか物語の中にひきこまれてしまうもな。
(しかし「蔵」は結局通しで読んだことは一度もないなあ。なのにストーリーは知っている。なんでだ)
人の心理の綾の書き方もすごいし、伏線のはりかたも見事だし。
いろんな意味で、すごい小説だなーと思った。
篤姫やらクレオパトラやらと違って、戦前から戦後にかけての話だしょ〜?
手を伸ばせば届くくらいの近い時代の人がモデルだもの。
(つまり、おーいお茶のおばーさんってことでしょ?)
書きにくかったに違いない。なのにすごい。
実際、遺族が存命の近代の人物をモデルにしていて、遠慮したんだかずいぶんモデルが完全無欠のいい人となって描かれてしまい、小説としてはちと物足りないというか印象が薄いものになってしまっている作品とか、あるもんな。
何が事実で何がそうでないやら。
でも決して興味本位で筆でつつきだしたのではないのはよくわかる。
戦前の歌舞伎界って、封建的だったんだねえ。
あの頃の役者さんって、すごい存在だったんだねえ。
この小説を読んだあとなら、歌舞伎役者の隠し子問題とか、たいしたことないわ、ふつーふつーとか思えてきちゃいます。
今日は久しぶりに札幌。
私にとって札幌は「ハレ」の街。
地元にはない面白い物を見つける街。
日常生活を送っている街ではないから新鮮で、それでいてちょこちょこ行ってるから土地勘は出来ている。(方向音痴にはこれ大事)
習い事は、相変わらずヘタレ。
自分をうまく使えないかんじ。
でもたぶん、出来ないからやろうと思うんだろうな。
帰りにアップルストアに寄ってOne to One(プライベートレッスン)を受けた。
私はつねづね「もしかしてMacってWindowsより重い?」と思っていたのだけれど、Macが重いのではなく「私のMac」が重いらしいことが判明。
今度札幌に来たときに、技術サポートを受けてみることにした。
あと、長年むらむらと疑問を抱いていたことを教えてもらい、すっきりした。
ここんとこMacの悪口ばかり言ってる気がするけれどMacは好きなんですのよ。
アップルストア札幌店の人たちは、感じのいい人ばかりだ。
そのあと、本屋とか手芸屋とかCD屋とか、「ぼーっ」と思いつくまま気の向くままあちこち寄って、そのわりには結局なにも買わないで、バスで帰宅。
調子が良くなってくると、この半年、自分がいかにイライラしていたかが、よくわかる。
図書館でひそひそおしゃべりをやめない女子高生も、空気読めないおばちゃんの鈍重さも、英会話のクラスメートの体臭も、何も許せないの。
でもいまはねえ。吐き気をこらえるような思いをしながら何時間も机の前に自分を縛り付けていても出来なかったことが、いまはスタバでコーヒー飲みながら「さらっ」とやってしまえる。るんるん。
もう、いちゃこらしてるカップルも、奇声を発するコドモも、なーんも気になりませんことよ。るんるん。
でね。
うちに帰ったらさあ。
机の上にあった某ファンクラブ封筒が目に入ってさあ……
「あーっ! 支払い期限今日の21時までだったあっ!!」
せっかく抽選で当たったチケット、反古にするところでした。
時刻は20時52分。
誰に対してなのかはわからないけれど、思わず、なにもない空間に向かって手をパンパンして、
「ありがとうございますっ」
と感謝してから、急いで財布ひっつかんでセブンイレブンまで走りましたぜよ。
おおおおっ危ねえっ。
ひとつでも遅いバスに乗っていたら、泣くに泣けない事態に陥るところであった。
もうちょっとゆとりをもって行動しようね。
毎朝5時に起きて走っている。
はい確かに。言葉に嘘はない。
だが最初にタイマーが鳴ってから家を出るまでに、タイムラグがとてもある。起きて身支度をする以外の動作がそこにはあるわけだ。ぼーっとする、という。初日は一時間近くかかったが、最新は20分くらいに短縮された。
なんでなんだろうね。
朝走るようになって、いいことばっかりなんだよ。
一日ごとに薄皮をはぐようにだけれど確実に、全てが快方に向かっている。
部屋が綺麗になりだし、料理できるようになり、寝起きと寝付きがよくなり、英語を捻り出すのに苦労しなくなった。(でも痩せない)
にも関わらず、未だに朝タイマーが鳴るたび「あ゛ー走りたくねー」と思ってしまう。どうしてなんだろう。
苦しいんじゃない。苦しくならないやり方で少しずつ走っているから。
気持ちいいくらい。
健康になることがいやなのかね。健全になること、かもしれない。そっち方向の歯車に巻き込まれていくのが怖い。なんでやねん。
走らないでいると濁ってしまう頭というのは、私の持病のようなものなので、多分一生やり続けないといけない。カラカラ車の中のネズミみたいに。
それが気が重いのかな。
これは、この先ずっと走り続けていけばなくなる感覚なのか。
それともついてまわるのか。
今日は朝寝坊した。すると何をするのもとっても時間がかかるのでびっくり。こんなに違うのかー。
で、午後から「いやだなー面倒だなーたるいなー」と思いつつだらだらとスポクラに出かけて走った。
いやー、ランニングマシンで走るのって楽なのねえ。
歩かないでどこまで走れるか試してみたら、苦しいと思う間もなく、さらっと走ってしまいました20分。
夏には苦しくてとても無理だったのに。
体力ついたねえ。
さっきふと目に入ったメルマガに、「子供が言うことをききません。どうしたらいいでしょう」というのがあって、回答が載っているサイトを見に行ったのだけれど(なんでまた)
「イヤダイヤダと言いながらでいいから言うことを聞いてねと言いましょう」だって。
それでいいのか? というか本当にそれでなんとかなるのか? と思ったんだが、専門家が言うのだからそうなのだろう。
というわけで、私も自分の中の5歳児が「いやだやりたくねー」と言うのを
「まあまあ」となだめながらなんとかやっていこうと思う。
まあどっちにしろ、朝走れるのは雪が降るまでのことだし。
(寒くなったらどうやって走ろうというのがまた悩む……)
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昨日、私のやったあることについての、第三者からの評価を見た。
ぜんぜんだめだーと思って落ち込んでいたのが、意外に高評価だったの。
「あ、これでいいんだ」と……。
ベクトルの大きさは足りないけれど、方向は間違っていないんだな、と。
「私は自分に課すハードルが高すぎるのかもしれない」と思った。
昔から、褒められることが少なかったからだろうか。
自尊心が高いんだろうか。
褒められても素直に納得できない。
もーちょっと自分に期待してみようか。(あ、ギフトの歌詞)
で、もーちょっと目標を手の届くところに設定しよう。
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